佐々木氏
(ささきうじ)
宇多源氏{うだげんじ}の流れをくむ近江{おうみ}の豪族。近江国蒲生{がもう}郡佐々木荘{しょう}(滋賀県安土{あづち}町・近江八幡{おうみはちまん}市)を領して佐々木氏を称した。秀義{ひでよし}のとき、平治{へいじ}の乱(1159)で源義朝{よしとも}に属し、平氏に追われて一時相模{さがみ}国渋谷{しぶや}荘(神奈川県藤沢・大和{やまと}・綾瀬{あやせ}市近辺)に逃れた。1180年(治承4)源頼朝{よりとも}の挙兵に応じて平氏追討に功をたて、その子定綱{さだつな}は近江の守護に任じられた。またその後、定綱が石見{いわみ}・隠岐{おき}・長門{ながと}、定綱の弟経高{つねたか}が淡路{あわじ}・阿波{あわ}・土佐{とさ}の守護に任じられるなど、佐々木一族は一時各国の守護を兼ねた。承久{じょうきゅう}の乱(1221)ののち信綱{のぶつな}が家督を継ぎ、その三男泰綱{やすつな}の系統が佐々木氏の嫡流となり、六角{ろっかく}氏を称して鎌倉時代から戦国時代に至るまで、ほぼ一貫して近江の守護を代々継承した。応仁{おうにん}の乱(1467~77)ののち高頼{たかより}が将軍足利義尚{あしかがよしひさ}・義材{よしき}(義稙{よしたね})の追討を受けたが、その子定頼{さだより}は将軍義晴{よしはる}に仕え、管領{かんれい}に準ぜられた。1568年(永禄11)織田信長に攻められて敗れ、まもなく滅亡した。佐々木一族は鎌倉時代に多くの庶流を分出したが、なかでも泰綱の弟氏信{うじのぶ}の系統は京極{きょうごく}氏を称し、近江国の北部を基盤に勢力を伸長し、南北朝内乱初期には高氏{たかうじ}(導誉{どうよ})が一時近江の守護となった。その後、室町幕府の侍所所司{さむらいどころしよし}ともなり、四職{ししき}の一として六角氏をもしのぐほどの勢力となったが、応仁の乱ののち、一族の内訌{ないこう}や家臣の叛乱{はんらん}、六角氏との抗争などのためしだいに衰退し、浅井{あさい}氏に勢力を奪われた。その後、高次{たかつぐ}のとき織田信長、豊臣{とよとみ}秀吉に仕えて京極氏を再興し、近世大名となった。 <田代 脩>
