京焼
(きょうやき)
桃山~江戸時代の近世京都の陶磁器の総称。平安時代以来長く都の置かれた京都には、初め緑釉{りよくゆう}陶窯が開かれたことはあったが、中世にはまったく不作で、築窯が活性化するのは近世に入ってからである。その先鞭{せんべん}をつけたのは千利休{せんのりきゆう}が指導した楽{らく}長次郎の楽焼であり、1586年(天正14)には宗易{そうえき}(利休の名)形の黒楽・赤楽の茶碗{ちやわん}を完成した。楽焼は中国明宋{みんそう}期の交趾{こうち}焼(三彩の一種)の鉛釉技術を導入して新機軸を樹立したもので、低火度の鉛釉を用いるため窯の規模も小さく、屋内に築かれるところから内窯{うちがま}とよばれた。これに対して傾斜地に築かれる長大な窯は本焼きとよばれ、江戸時代になると京都東山の山麓{さんろく}一帯を中心に、清水{きよみず}焼、清閑寺{せいかんじ}焼、粟田{あわた}焼、御菩薩池{みぞろがいけ}焼、八坂{やさか}焼、音羽{おとわ}焼、修学院{しゆがくいん}焼などが開かれていった。
京焼の語は1605年(慶長10)の『神谷宗湛{かみやそうたん}日記』が初出で、このころ東山一帯の本焼きは瀬戸焼を中心に信楽{しがらき}焼などの窯技を受けて始まり、とくに茶の湯道具に活路をみつけたと推測される。この東山一帯の窯の初期の作品がいまはほとんど把握されえないのに対して、洛西仁和寺{らくせいにんなじ}の門前に開かれた御室{おむろ}焼は、優秀な作陶力によって初期京焼の名声を一手に集めることとなった。この窯の名は正保{しようほう}末年の1648年ごろ史料に登場する。瀬戸で修業を終えた野々村清右衛門(のち仁清{にんせい}を名のる)がこの御室焼に迎えられたのは1650年(慶安3)で、以後1人の不世出の名工を得て、瀬戸風の茶具に加えて、透明釉地に上絵付を行う色絵陶器を開発し、京都ならではの洗練の妙を尽くした優美な和様茶具を完成させた。御室焼の窯の近くに居住していた尾形乾山{けんざん}は、仁清の陶法を伝授されて、1699年(元禄12)、近くの鳴滝泉谷に本焼きの窯を開き、兄尾形光琳{こうりん}と組んで独自の琳派画風を加えた加飾陶器をつくり、その雅{みや}びな個性味によって人気を博した。
この2人が活躍した17世紀後半から18世紀にかけては、仁清風、乾山風の色絵陶器や銹絵{さびえ}陶器が東山一帯の窯で焼かれたらしく、遺品も多い。これらの色絵陶はほとんどが飲食器であり、一般に「古清水{こきよみず}」と呼び習わされている無款のもののほか、「清」「岩倉」「京」「清閑寺」「清水」「粟田口」「粟田」「御菩薩池」「藤」「長」などの商標を印捺{いんなつ}した作品も古清水のなかに含めている。
乾山は磁器づくりにも大いに興味を示したが、京都で初めて磁器の焼成に成功したのは18世紀後期であった。中国帰化人の末裔{まつえい}奥田穎川{えいせん}は、家業のかたわら製陶を行い、天明{てんめい}年間(1781~89)ころに初めて白磁を開発し、あわせて上絵付法も試みている。時代の風潮は文人趣味が横溢{おういつ}していたので、必然的に中国陶磁が手本となった。彼の門下から青木木米{もくべい}、欽古堂亀祐{きんこどうかめすけ}、仁阿弥道八{にんなみどうはち}らが輩出し、洋の東西の古陶磁を手本に、多岐多様な明るく晴れやかな陶磁器が個性味豊かに焼造された。そして全国的な御庭焼の普及に伴い、彼らは各地の窯をも指導した。土風炉{どぶろ}づくりの西村家に生まれた永楽保全{えいらくほぜん}もやはり傑出した陶工であった。 <矢部良明>
【本】林屋晴三編著『日本の陶磁13 京焼』(1975・中央公論社) ▽河原正彦著『陶磁大系26 京焼』(1973・平凡社)
