亀井茲矩

(かめいこれのり)
(1557―1612)戦国時代~江戸初期の武将、因幡{いなば}国(鳥取県)鹿野{しかの}城主。初名は真矩{さねのり}、通称新十郎、武蔵守{むさしのかみ}。出雲{いずも}国(島根県)湯之庄{ゆのしよう}出身の土豪で代々湯氏を称し尼子{あまご}の家臣であった。尼子滅亡後山中幸盛{ゆきもり}(鹿之介{しかのすけ})らと主家再興を図り、尼子の重臣亀井秀綱の遺子(幸盛の養女)を妻とし亀井氏を継いだ。やがて織田信長に属し豊臣{とよとみ}秀吉配下、播磨{はりま}・因幡に転戦し、功により因幡鹿野城主、一万三千五百石を領した。秀吉の死後は家康に接近し関ヶ原の戦いでは東軍に属した。ついで家康の命で因幡・伯耆{ほうき}を平定、功により二万四千五百石加増、すべて三万八千石を領した。
領内の干拓、殖産興業に実績をあげ、伯耆銀の発掘、東南アジアへの朱印船の派遣など多彩な足跡を残した。慶長{けいちょう}17年正月26日鹿野にて死、56歳。嗣子{しし}政矩{まさのり}は石見{いわみ}国(島根県)津和野{つわの}へ移封され、子孫は代々津和野藩主である。 <松尾 寿>

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