不受不施派
(ふじゅふせは)
日蓮{にちれん}宗の一派。不受不施とは受けず施さずということで、日蓮宗以外の他宗および不信者(謗法{ぼうほう}者)の布施供養{ふせくよう}を受けず、信者は謗法の僧に供養しないという、日蓮教団の信仰の清浄、純正を守るための宗規であり信条である。この不受不施義は、日蓮教団の形成・発展の初期は、公武の権力者は枠外にあった(王侯除外の不受不施制)が、室町時代に入ると公武も一般信者も同等にして差別なしとされ、宗祖日蓮以来の古制として厳守されてきた。1595年(文禄4)豊臣{とよとみ}秀吉は東山の方広寺に大仏殿を建て千僧{せんそう}供養を営み、諸宗の僧とともに日蓮宗も招請した。これを拒む日奥{にちおう}と柔軟派の日重{にちじゅう}とが対立、結局、日重派が大勢を占めたが、ここに不受不施の論争が展開することとなった。秀吉が没し、徳川家康の時代となると、日奥の主張は国主の権威を損なうものとして1600年(慶長5)対馬{つしま}に遠流された。1612年日奥は赦{ゆる}され、23年(元和9)江戸幕府は不受不施派に公許状を与えた。しかし、布施を受けることを認める京都側と、不受不施を主張する関東諸山はつねに対立した。幕府は初め、2派の対立抗争に介入せず、統制下に置くこともなかったが、1660年(万治3)ころ幕府機構の確立とともに全国寺社領の朱印を調査し、改めて朱印を下付した。ここに、朱印を放棄し出寺した不受不施僧(法中{ほっちゅう})を中心に、表面は一般日蓮宗や天台宗、禅宗などの檀家{だんか}となり内心に不受不施を信ずる(内信{ないしん})者と、自ら戸籍を脱して無宿の者となり内信と法中の間にあって給仕する(法立{ほうりゅう})者とが自然に生まれ、内信―法立―法中と連係する秘密の教団組織が形成され、これを不受不施派という。不受不施派は教団形成後まもない1682年(天和2)のころ日指{ひざし}派(尭了{ぎょうりょう}派)と津寺{つじ}派(講門派)に分かれたが、1876年(明治9)4月、尭了派の釈日正{しゃくにっしょう}が「日蓮宗不受不施派」を再興し、派名公称の許可を得、84年3月に講門派の釈日心{しゃくにっしん}は「日蓮宗不受不施講門派」の公許を得た。 <望月良晃>
【本】宮崎英修著『不受不施派の源流と展開』(1969・平楽寺書店) ▽相葉伸著『不受不施派殉教の歴史』(1976・大蔵出版)
