上杉治憲
(うえすぎはるのり)
(1751―1822)江戸中期の米沢{よねざわ}藩主。日向{ひゅうが}国(宮崎県)高鍋{たかなべ}藩主秋月種美{たねみつ}の二男として江戸に生まれる。幼名松三郎、のち直松{なおまつ}。1760年(宝暦10)出羽{でわ}国(山形県)米沢藩主上杉重定{しげさだ}の養嗣子{しし}となり、67年(明和4)4月、満15歳で第10代の藩主となる。元服して治憲を名のり、藩主隠退後の1802年(享和2)に鷹山{ようざん}と号した。治憲の襲封は、藩政改革の開始を意味した。当時米沢藩は極度の財政窮乏のため、領土を幕府に返上しようとする有力な議論も出ていたが、藁科松伯{わらしなしようはく}の菁莪{せいが}社に集まった有為の人物を中心に、新藩主治憲をたてて藩政改革を断行した。改革は天明{てんめい}年間(1781~89)の中断期を挟んで、明和{めいわ}・安永{あんえい}の改革、寛政{かんせい}の改革にわたり長期に及んだ。第一次の改革は治憲が藩主として、執政竹俣当綱{たけのまたまさつな}のもとに進められ、大倹約令の実施、農村支配機構の改革、漆・桑・楮{こうぞ}各100万本の植え立て、織物技術の導入、藩校興譲館の創設など積極的な施策が実施された。倹約の実践、藩校創設の指導にあたっては、藩主自ら親しく儒者細井平洲{へいしゆう}や渋井太室{たしつ}の教えを請うている。改革が天明飢饉{ききん}その他の理由で中断したあと、85年(天明5)治憲は満33歳で藩主を隠退し、その後は新藩主治広{はるひろ}(重定の実子)の後見役となるが、ときに新藩主に与えた『伝国之辞』が有名。寛政の改革は中老莅戸善政{のぞきよしまさ}(太華{たいか})を中心に推進されたが、隠殿における治憲は女中たちに養蚕、絹織りをさせるなど、精神的、実践的にも一貫して改革を指導している。文政{ぶんせい}5年3月12日米沢で没す。上杉神社 <横山昭男>
【本】横山昭男著『上杉鷹山』(1968・吉川弘文館)
