三好長慶

(みよしながよし)
(1522―64)戦国時代の武将。阿波{あわ}守護細川家の家臣で、細川晴元{はるもと}を畿内{きない}の支配者に押し上げた元長{もとなが}の子。幼名は千熊丸{せんくままる}。実名は初め利長{としなが}、のち範長{のりなが}。1532年(天文1)父元長が討ち死にし若年で家督を継ぐ。33年細川晴元と大坂石山本願寺の証如光教{しょうにょこうきょう}との和睦{わぼく}を仲介、34年8月には一向一揆{いっこういっき}方と連合して晴元と戦うが、同年10月には河内{かわち}の守護代木沢長政{ながまさ}の仲介で晴元に帰属する。しかし49年6月摂津江口{えぐち}(大阪市東淀川{ひがしよどがわ}区)で細川晴元・三好政長{まさなが}の軍を破り、晴元、前将軍足利義晴{あしかがよしはる}、将軍義輝{よしてる}を近江に追い、管領細川氏を中心とした支配体制を崩壊させ、山城{やましろ}・摂津の実権を握る。52年将軍義輝と和すが53年ふたたび近江{おうみ}に追い、58年(永禄1)またふたたび義輝と和す。この間、弘治{こうじ}年間(1555~58)ごろまでに山城・摂津を中心に畿内から四国・瀬戸内海東部に及ぶ九か国に勢力を拡大した。長慶は管領制を終わらせ、室町幕府体制の新しい段階をつくった。また、その権力は、畿内支配の本拠を京都には置かず、摂津の越水{こしみず}城(兵庫県西宮{にしのみや}市)、芥川{あくたがわ}城(大阪府高槻{たかつき}市)、河内の飯盛{いいもり}城(大阪府四條畷{しじょうなわて}市)に置いた点で、従来の畿内政権にはみられない新しい支配方式を採用した戦国期権力であった。しかし、将軍のもつ伝統的な権威・権限を解体しようとはせず、幕府依存の体質を止揚{しよう}することはなかった。61年以後は実弟十河一存{そごうかずまさ}、三好義賢{よしたか}の敗死などがあって勢力が低下。さらに63年嫡子義興{よしおき}が急死すると意欲を失い、永禄{えいろく}7年7月4日、飯盛城で没した。 <矢田俊文>

【本】今谷明著『言継卿記』(1980・そしえて)

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